1. しゃべる駄犬と処女の攻防

 ……何を? と問い返すのは本能的に避けて固く握りしめた拳を目の前の鼻先にコンマ0.3秒で叩き込んだらキャィイインと犬もどきはまるきり犬のような悲鳴をあげてもんどりうった。うむ。
 猫派といえど、犬の弱点が鼻であることくらい知っている。あとタマネギ食べると中毒になるのも知っている。今はまったく関係ないが。

「はぁっ、はぁっ……あーあぶなかった」

 死ぬとこだった。
 いくらなんでも、齢二十一で死にたくはない。
 なんせこちとらまだ乙女と書いてバージンと呼ぶ花も恥じらいすぎてそろそろ妖精になっちゃうよマジで的なお年頃である。恋も知らずに死ぬなんて、そんな不幸があるものか。だいたい死ぬときは美少年の膝枕でと決めている。
「………死ぬほどいたかったです」
 まだ拳を固めたままの倫子をのろのろと見やって、犬もどきはどこか呆然とした口調で呟いた。
 心なしかさっきよりも耳が垂れている。
「あんたがいきなりひとを喰おうとするからでしょう」
「だって、ボクが拾ったんですよ」
「拾い食いはダメです」
「でも、あなた鎮めの乙女でしょう? だったらボクが食べてもいいはずだけど」
「鎮めのおとめぇ?」
 なんだそれは。というか、そもそも根本的な問題として、今さらながらに倫子は己の置かれた状況のぶっとびぶりに気づいてザァッと青ざめた。目の前のしゃべる巨大な獣が犬かどうかはさておき、いや、喰われそうになったけどそれもさておき――そもそも、
ここは、どこよ。・・・・・・
(どう考えても、東京じゃあないわよ、ね……)
 東京にこんなダンジョンちっくな洞窟はないし、倫子は近所の小学校にいたはずで、瞬間移動でもしない限りこんなところにいるはずはないのである。ましてや、人語を解する犬もどきに「食べてもいいですか」なんてバカ丁寧にお願いされることも。

 世の中には、少なからず摩訶不思議なことが起こり得る。
 引っ越しした先の洋服箪笥の奥がナルニア国へつながっていたり、十一歳の誕生日に実はお前さんは魔法使いだったんだあハピバ!と言われたりする。
 だから倫子が東京からいきなり見知らぬ洞窟へと瞬間移動して現在進行形で人語をしゃべる不思議な生き物と対峙している状況も、もしかしたら起こり得ることなのかもしれない。
………………………………の、かなあ?

「この森に入ってくる人間は鎮めの乙女だけだから、てっきりあなたもそうなのかと……違うんですか?」
「そもそも、鎮めの乙女っていうのがまったく理解らないんだけど」
「ふぅん、じゃあほんとに違うんですね……でも、あなた“匂い”がしたんだけど……」
 深いサファイヤの眼が、探るように倫子を見る。
 思わずぞくりとして身を引くと、犬もどきはまあいいやと一度瞬きして話を続けた。
「鎮めの乙女っていうのはですねー、里の人間たちがボクらへの供物として捧げてくる若い娘で」
 ――ボク“ら”? 
「処女なのが取り柄なだけのメスブタ共です!」
「な、なんでいきなり小沢真珠調?」
 てか、供物って。
 じろじろと目の前の犬もどきを凝視する。この容姿、このでかさに加えて人語を平然と解するあたり、タダモノではない気は薄々していたが――
「………あの、あんたってもしかして、ヤマタノオロチ的な」
「ヤマタノ?」
「山神というか」
 ああ、と犬もどきはこともなげに頷いた。

「神獣という意味なら、そうですね」

 はい、神獣キチャッタコレ。
 うーむ、でも、正直見えない。どう贔屓目に見てもせいぜい山犬だ。つまり、妖怪。
(神獣、妖怪……ううん、なんだろう。こんな感じのいたっけかな〜)
 倫子はこれでも文学部所属の学部三回生で(専攻は近代文学だが)、それなりに神話や民話の類にも精通している。日本には古来より伝説とされる様々な生き物がいて、主に水木しげるなどによってその生態が解明されているのだ。
 とはいえ、記憶をたぐってみても該当するものがない。モロぐらいしか。
「……ほんとに鎮めの乙女じゃないんですか?」
「ちがいますー」
「そうですか、ではボクの勘違いでした」
 犬もどき(本人曰く“神獣”)はちょっと考える仕草をして、それから改めて前足を揃えると丁寧に犬座りをした。
「じゃ、それはそれで食べていいですか」
「いくない! 鎮めの乙女はどうしたのよ、鎮めの乙女は! そんなたいそうな呼び名がついてるってことは、ちゃんと儀式的な意味があるんじゃないの」
「鎮めの乙女とか、ボクは別にどうでもいいんです。あなたがここにいる、それだけが真実」
「そんな恋愛映画のキャッチコピーみたいに言ったってダメですー」
「アバズレめ!」

 罵られた!

(こ、こいつ……っ、実は相当性格悪いんじゃないの?!)
 まさか犬(でいいやもう)に面と向かってアバズレと罵倒される日がこようとは思わなかった。嬉しくもなんともねえ。
「じゃあ上半身だけでも」
「ダメです」
「せめて腕一本だけでも」
「ダメです」
「指だけ」
「ダメです」
「ウジ虫野郎!」
 わあ、なんだこいつ。かるく殺してえ。
 倫子はどっと脱力して立ち上がった。もう付き合いきれん。
(あーもう、身体べっとべとだしさあ……)
「とりあえず、身体洗いたいんだけど。どっかに湖とかないの?」
「入口を出てすぐのところにありますけど」
「おー。よし、じゃあちょっとわたし行ってくるね」
「はあ」
 おすわりする犬の横を通って入口とおぼしき明るいほうへと歩いていく。背中にびしびしと露骨に未練がましい視線を感じたが、なんかもう開き直って無視をした。
 立派なトンネルほどの大きさのアーチ状の入口からは、晴れやかに澄み渡った蒼穹が広がっていた。穏やかな風が吹き込んでは倫子の長い髪を揺らしていく。ちょうど薄手の長袖シャツ一枚で充分なくらいの陽気だ。洞窟の中は岩場のおかげかひんやりしているが、外に出て歩けばいくらもしないうちに汗をかくかもしれない。外で水浴びをしても、たぶん全然OKな暖かさ。
 倫子は満足して意気揚々と一歩足を踏み出し、

「――あ、高いですよそこ」

 落ちた。

 断崖だった。

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