亡き王女と狩人




 絶望するには優しく、死ぬには穏やかすぎる夜だった。
 リシェンカは群生するシダの道を歩きながら、うんと首を反らして頭上にかかる月を見上げる。果実のように丸い月。
(月にはウサギが住むというけれど、本当かしら?)
 だとしたら、そのウサギは今もあそこから森を歩く男とリシェンカを、赤い瞳をして眺めていることだろう。
 見上げる夜空は細い枝に切り刻まれて、一歩歩くたびに複雑に陰影を変えた。冬になれば凍る大地にそれでもしっかりと木々は根を伸ばし、音もなく降り注ぐ星灯りに、まとった夜露をきらめかせて一層美しく、幻想的にリシェンカの黒い瞳に映り込む。――昔、母さまがくれた異国の絵本。何度も指で撫でた、あの童話の挿絵もこんなふうだったことを思い出す。もうおぼろげにしか覚えていないけれど、そういえばあの物語の結末はどんなふうだったろう。(幸福な結末だっただろうか。それとも、残酷な結末だっただろうか) 
 男が歩みを止める。
 だからリシェンカも、その三歩後ろで歩みを止めた。
 赤い唇の合間から漏れた微かな吐息は、冷たい風にしんと溶け込む。風は冷たくとも、まだ吐息は白く凍らない。旅人は厚い毛織のマントをきつくかき合わせるけれども、この土地に生まれ育ったリシェンカにとっては暖かい夜だ。悲しい夜でもある。長く厳しい冬に挟まれた短い夏の間だけ、夜空にかかる月は赤い。
 男が静かに振り返り、ゆっくりと右手を腰に、
「……殺さないのですか?」
 吐息の白い雲を九つまで数えてからリシェンカはそう言った。

 男は沈黙している。
 リシェンカの白く華奢な首の三倍はありそうな太い首に乗った浅黒い顔には、何の表情も滲んでいない。研いだ鋼のような灰色の双眸にも、何の感情も揺らいでいなかった。もとより月を背にしているせいで、男の顔には濃い影が落ちている。やはりリシェンカのそれよりもずっと大きな右の手のひらには、ひと振りの鉈が。
 男は沈黙している。
 けれども、その鉈で男がリシェンカの心臓をえぐり出すつもりでいることを、ちゃんとリシェンカは知っていた。
 そう命じる母の声を聞いたのだ。

“……そなたが一番美しい、と、毎夜あの方はわたくしに言ったの。ベッドに腰かけ、一糸まとわぬわたくしの身体を両手に持った鏡で映しながら、余の妻が国中で一番美しい、と、”

 月影に身を寄せたまま語らぬ男の言葉のかわりに、その囁きは絶え間なくリシェンカの耳に蘇り、甘く鼓膜に毒を塗る。

“けれども、もうあの方は毎夜わたくしの名を呼びはしない。わたくしの姿よりも、お前の姿を鏡に映して、お前の名を呼ぶのだもの、――ああ、リシェンカ、わたくしの美しい娘、”

 かつて国中で一番美しかった母は、そう言って今では自分よりも美しく成長した娘のすべらかな黒髪を撫で、透き通る薄紅色の頬にキスをして、瑞々しい唇にそっと吐息を吹きかけた。吐息は優しく、リシェンカの心臓を軋ませた。

“――お前がもっと醜ければ、わたくしはお前を愛しているふりを出来たのに、”

 十五年前に母がリシェンカを身ごもったとき、母は鷺鳥の羽根のように舞い散る雪を見て、こんなふうに白い肌の子が欲しいと願ったそうだ。白く美しい子を、と。そして産まれた赤子は誰よりも美しく、彼女の願ったように白い肌をしていたので、リシェンカと名付けられた。真冬に咲く白い花の名である。
 リシェンカはまだ幼い。
 すっかり泥と苔に汚れてしまったドレスから伸びる手足は頼りないほど細く、慣れない森歩きでこしらえたひっかき傷のついた顔立ちも、無垢であどけない。王城の塔で外界から一切隔離され、蝶よ花よと大切にされて育ってきたせいで、同じ歳の子よりもずっと幼く見えた。それでも、去年の年の瀬に遅い初潮を迎えると、その薔薇よりも赤く艶めいた唇や、新雪よりも真白い肌には女としての色香が甘く滴るように薫りはじめ、内面の無垢さと相まって、城で暮らすあらゆる階層の男たちの気をそぞろにした。実の父親さえもそうだった。
 だから母がリシェンカを城から追い出したのも、悲しいけれどもきっと自分が悪いのだと自分自身に言い聞かせて、ここまで歩いてきた。逃げようともせずただ黙ってあとをついてくる美しく幼い王女を、狩人の男もまた黙って導いた。
 男が腰に下げていた木の鞘から鉈を取り出したときも、リシェンカはじっと男を見つめ返しただけだった。
 心が引き裂かれるように痛んだけれども、――父と母を、愛していたから、わたくしはもう、お前を二度と見たくはないの、と言った母の言葉に従った。不思議と涙は出なかった。きっとすべてを受け入れて泣くには、あまりに幻想めいた夜だったせいだろう。
 男は沈黙している。
「……殺さないのですか?」
 問うてみたところで返ってくる答えは一つしかなかったので、馬鹿げた質問をしたことを恥じて俯く。
 女王の治める国で、女王たる母に逆らう者はいない。殺せと命じられれば殺すし、心臓をえぐり出して持ってこいと言われれば、男はそうする。――だから、リシェンカはここにいるのに。こうして。男と一緒に。獣が遠く鳴く声を聞きながら、今もその鉈が身体を切り刻むのを待っている。じっと。
 けれども男はリシェンカを灰色の眼差しで見つめたまま、微動だにしないのだった。
 あまりに静かなので、無性にその声を聞きたくなる。なんでもよかった。なんでもいいから、彼の声を聞いてみたい。できることなら、名前を呼んでほしかった。誰にも呼ばれず、誰にも必要とされず、こんなに穏やかな夜に一人で死ぬのは、あまりに寂しい。
「――殺されたいか、」
 長い長い沈黙の果てにようやく一言だけ地に落ちた男の声は、直接鼓膜を撫でるように低くざらついて聞こえた。殺されたくはない。けれども、仕方のないことだとも思う。だから抵抗するつもりもなかったし、殺してください、と、母の命じた言葉のままに従順に答えるはずの言葉は、勝手に別の言葉になってリシェンカの口から零れ落ちた。
「……生きたい、です」
 死にたくはない。
 殺されたくはない。
 父と母にいらない子だと言われても、
 わたしはまだ、わたしを必要としている。
 美しい黒檀の瞳を長い睫毛の影に隠し、こらえきれずにリシェンカは唇を震わせた。瞳と同じ色をした髪が、空気の振動に微かに揺れる。湿った苔に覆われた大地は男の足音を消す。唇を噛みしめ、再び顔を上げたときには、男はそこにいなかった。細い木の幹に背をもたれ、思わず小さく漏らした吐息は、すぐにすすり泣きに変わる。
 男はいなくなった。
 あとから思えばそのまま逃げてしまえばよかったのに、どうしてだかそのときはそんな考えは微塵も浮かんでこなかった。ふんわりした菫色のドレスに包まれるようにして膝を抱え、リシェンカはじっと男を待った。夜空を見上げているうちに、いつしか嗚咽も星明かりに吸い込まれた。
 やがて東の空がリシェンカの頬と同じ、淡い薄紅色に染まる頃、男はリシェンカの前に戻ってきた。鉈は腰の鞘に戻されていたが、男の身体からは濃い血の臭気がした。
 男が無言で歩きだす。
 リシェンカも僅かに逡巡したのち、無言でその背を追う。
 どこへ行っていたのかも、それが誰の血であるかも尋ねなかった。リシェンカの心臓の代わりに、彼が猪の子の心臓を母のもとへ届けたのだとリシェンカが知ったのは、それからずいぶんあとのことになる。

 不思議な一夜だった。
 生まれ育った城を追い出され、殺されるはずだったその夜に、けれどもリシェンカは死なず、男の暮らす猟師小屋で、男と共に暮らし始めた。恐ろしく寡黙なこの男の名を知ったのは、その夜から三日目の晩のこと。
 それから半月ほどして、リシェンカの国葬が王都で盛大に行われた。リシェンカは外套のフードで顔を隠し、密かに男と連れ立って自分の冥福を祈る人々の声を聞いた。遠目に見た母は以前にも増して美しく、その晩は男の腕の中で声を殺して泣いた。狩人は何も言わなかった。
 ただその手の温もりだけを今も覚えている。



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2011/2/27改

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